2011年05月25日

飄哩譚

Img_5798a.jpg

清教徒革命の「ピューリタン」に引っ掛けて、記事の表題を「飄哩譚(ひょうりたん)」としてみましたが、昭和の文豪:安岡章太郎先生が御自身の一族を題材として執筆した小説「流離譚」にも偶然引っかかっています。 漂々と歴史的海原を何海里も航海してしまった。そんな意味合いを感じていただければありがたいですか。

帰省した際、ついでに我が家のルーツ探しをしてみたのだけど、どこまで本当なのか?よく分かりません。都市伝説ではありませんが、信じるも信じないも貴方次第、ボク次第。信頼に当たる(と思われる)筋で資料を借りてきたので、ここに写しを取り保存しようかと思います。

▼以下ね。系譜によると、

関東に勃興した桓武平氏。関東平(かんとうだいら)。葛西壱岐守清長が孫:民部左衛門康径が治承四年源義経に仕え、元暦元年の八島(屋島)合戦で軍功あり、義経公より太刀拝領す。文治五年衣川合戦で敗北したので奥州宮城郡多賀城(鎮守府兼陸奥国府)家中になり同城脇に住み、氏を改め××氏(現苗字)と称する。

後代:和泉守光信は二条館宮内家中となり、以下代々宮内家中役をした。

光信子:山城守義隆は建武元年より北畠顕家公(後醍醐天皇による建武の新政)に仕え、軍功があった。

義隆孫:弾正重康の代 向山を移り、会津政務祐近に仕えた。

重康子:将監重信は応永二十三年二本松探題畠山家に仕えた。

後代:万左衛門高則は永享二年刈田郡向山郷十貫文拝領し、向山小山崎に住んだ。

高則子:万兵衛(まんひょうえ)高康は天文二十二年小山崎観音を京都より奉還し、同年屋敷氏神として祀った。

後天正十三年伊達政宗の為に宮内内膳は相馬駒ヶ嶺城に引き移り、当家知行召上となり民間に下ったとある。
crest.jpg
     

丸に四つ木瓜紋

ここで源流とされる葛西氏を調べてみますと、初代の葛西清重は、平姓秩父氏一族の豊島氏当主豊島清元(清光)の三男で、下総国葛西御厨(東京都葛飾区の葛西城を中心に江戸川区・墨田区などの伊勢神宮の荘園)を所領とした小大名なんです。清元・清重父子は源頼朝の挙兵に従って西国平氏討伐に参加した御家人。ですが清重は奥州合戦(衣川合戦)において武功を立て...???

つまるは義経追討に加担した鎌倉勢の方なんですな。祖父・父と袂を分かち義経側に従った孫の民部左衛門康径という方は歴史に登場しませんが、清重は奥州藤原氏が滅ぶと奥州総奉行に任じられ、更には鎌倉幕府の重臣に取立てられますので、孫の康径に苗字を変えさせて多賀城(後の陸奥将軍府)家中として住まわしてしまう温情的配慮がなされたのではなかろうか?

しかし豊臣秀吉による奥州仕置き後、この家の家譜は散失、その血流は奥州伊達・南部氏傘下に散ってしまい、歴史の舞台上において無色無臭化してしまいますので、その後の研究の障害となっているらしい。民間に下った後の我が家譜においても、その支流にあっては後の世で言う系図買取りなど大方妄作必至ではなかろうかと思われます。(笑) 
ルーツ探しは歴史的パズルのようでエスプリが効いていて面白く、例え水飲み百姓や木樵の大将であっても、そこには歴史的ロマンを感じさせる。家系に時折現れいずるボクの様な好事家が調べ書き起こさないと、また幾星霜歴史に埋もれていってしまうわけですから。

そんなことよりブルーベリーがこのように実った。やはり小生ハナヨリダンゴ。(笑

Img_5801a.jpg
posted by まっぴら at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | まっぴら歴史散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月31日

魅惑のヒノミコ

入梅前か、湿度に沿うようにジメジメと暮らしております。先週、自分的にセンセーショナルなNEWSとしてはこんな記事。く、くしゃんっ!

卑弥呼の墓か、築造期一致 奈良・箸墓古墳を科学的分析

以下、無知蒙昧な雑談を一席。
やまとととひももそひめのみことおおいちのはか...痛っ!舌噛んだ。
倭迹迹日百襲姫命大市墓=箸墓古墳の事ですね。欠史八代〜と、その実在が危ぶまれている第七代、孝霊天皇の皇女で巫女...蛇巫(へびふ)だそうです。卑弥呼の墓ともいわれていますが、ボク自身は畿内説、北九州説共々邪馬臺國論争はあまり興味がありません。初期古墳として関心があるだけ。(笑) 
古代墳墓は大陸から朝鮮半島を経由して日本に齎されましたが、立地条件的に海を隔てていたが為に古代中国における埋葬の思想や儀礼(儒教や道教)までは伝播されなかったようで、ただ造営技術と形状しか伝わらなかったみたい。これらと国内おおよそ四箇所(大和・吉備・出雲・北九州)の埋葬文化が集合したものが日本の前方後円墳なんですね。(無論、韓国にも前方後円墳はあります。)

後に「死ぬれば人体を形成する五蘊(ごうん)が四散し、その一切が無」といった仏教の流布で、古墳時代が簡単に終息を迎えてしまったり、玉音放送で一億総懺悔といった帝国主義など、技術本位やその模倣、思想の持続力など、何やらこの頃から日本人の遺伝的体質そのものを言い当てているような気がしてならないんですが如何に?

邪馬臺國=ヤマト国。あるいは日巫女(ひのみこ)=卑弥呼と訛ったという説もありますが、卑弥呼が魏に朝貢した際下賜された銅鏡100枚(三角縁神獣鏡)や親魏倭王の金印やらが出土すればより可能性がより高まるでしょう。しかし「魏志」倭人伝(正しくは魏書東夷伝倭人条)の記述には卑弥呼の墓は円墳とされており、前方後円墳の箸墓古墳とはその形状が大きく異なる。加えて銅鏡が400枚を越える数、全国的に出土している事からまったく食い違いを見せているのが謎ですよね。更に正史たる「日本書紀」は、ヤマト建国に関しては「魏志」倭人伝の記述を引用しながらも、邪馬臺國や卑弥呼の名は正しく伝えない消極的態度を示している。なぜ正史としてきちんと記録しないのだろう?

またちょっと調べていて気がついたのは、倭迹迹日百襲姫命の父である
孝霊天皇。その皇子の一人に彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)がいるんですね。この方またの名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)。童話「桃太郎」さんのモデルなんです。鬼とされた「温羅」。桃太郎さんのモデルの人は、吉備国に渡来した(と思われる)製鉄や鋳造の技術が欲しくて、この地を武力で制圧したんでしょうか?この当時の兵器は、鉄製品の導入により飛躍的に殺傷効果が向上します。

非常に古代ロマンと想像力を書き立てられる記事でした。今はもうちょっと解釈の易しい「日本書紀」の書籍を探しているところ。(笑)



posted by まっぴら at 17:39| Comment(0) | TrackBack(0) | まっぴら歴史散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月22日

岩窟探訪

yoshimi02.jpg

久しぶりにドライブがてら254を折れ、吉見町に立ち寄り、ここで
吉見百穴」を見学してきました。凄い数の穴でしょ。断崖に穿たれた地蜂の巣のよう。
「ひゃっけつ」とも言いますが「ひゃくあな」でも正しい。 亡父出自の東北地方にもこの手の存在しますが、こちらでは古い土地の方が露骨に「蝦夷穴(えぞあな)」などと呼んだ記憶がありました。
古墳時代後期〜終末期(6世紀末〜7世紀末)に作られたと云われる比企丘陵横穴式集合墳墓群。明治期の発掘調査では穴居時代の小柄な先住民族、土蜘蛛人(コロボックル)の住居跡という説が流布されたそうですが、後の調査で台座(棺台)が、古墳玄室の構造と似通っている事からが、その説は覆されました。

yoshimi03.jpg

丘陵や台地の急斜面を掘削して墓としたもので、ここの比企丘陵の凝灰質砂岩が掘削に適した岩盤なんでしょうね。実際入り口には緑泥片岩で石の蓋を立てかけたそうですが共同墓なんでしょうかね?複数の棺台がある穴もあり、追葬の可能性も考えられます。

yoshimi04.jpg

大人一人が屈んでやっとの玄室内。ここでは棺台は2基確認できますが、覗くことが出来る横穴はだいたい1基ぐらいが普通ですかね。一家眷属で代々利用したんでしょうか?棺台は一見120cmぐらいな丈で、小柄なコロボックルって言われるとなんとなく分かる気もします。現在確認できる横穴は総219基。

各地に巨大な前方後円墳が造営されなくなった時代...地方豪族の連合体の首長として君臨していた大和朝廷が、その強大な支配力をいっそう強め、地方豪族の権力の象徴であった古墳の造営を禁止する法律「薄葬令」が制定されます。日本全体が中央集権国家として纏まっていく過程において、各地にこの横穴群は出現するに至ったんでしょうね。この間仏教の伝来もありますから、古代の人々の死生観も含め、この岩窟墓は迷走と困惑の末の異形の産物であった気もします。

幼少の頃何かの特撮番組でこの地が秘密のアジトとして登場した記憶があるんですが、土産物屋さんには、かつて三船敏郎主演の「日本誕生」のロケ風景を写した貴重な白黒スナップが飾られておりました。

※)記事が長いのでここで一段畳みます。【09 03/01追記】

続きを読む
posted by まっぴら at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | まっぴら歴史散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月01日

雑踏を味わいに...

hikawasya090101a.jpg

まずは沢山の年賀状、どうもありがとうございました。
今日は朝から初詣の出かけておりました。我が家は受験生がおりまして合格祈願なのですが、親父的には子供の事情にかこつけて世間の賑わいを味わいにオンモに遊びに行きたかっただけ。(笑)
JRに飛び乗り、大宮駅へ...。目指すは武州六大明神のひとつ。大宮区高鼻町にある大宮氷川神社です。

hikawasya090101b.jpg

式内社、武蔵国一宮、勅祭社で、旧社格は官幣大社。大宮の地名はそもそも「大いなる宮居」すなわち「大宮」と呼称した事に由来するとか。
武蔵国造(くにつくり)は、この地を開拓した出雲国造と同族とする説もあり、ゆえ「氷川」は、出雲の「簸川」から来ているという説もあります。

須佐之男命・奇稲田姫命・大己貴命を主祭神として三氷川として祀り、須佐之男命を祀る男体社、奇稲田姫命を祀る女体社、大己貴命を祀る簸王子社の三社に別れておりましたが、かつての見沼の畔に大宮の氷川神社、中川の中氷川神社(現・中山神社)、三室の氷川女体神社が一直線に並んでいたそうで、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説もあるそうです。

孝昭天皇3年(紀元前473年)4月に創建されたとされますが、歴史どころか神の時代の範疇の事でよく分からない。今でこそ武蔵国一宮と呼ばれますが、昔は氷川は多数あり、文献はどこの氷川を指しているのかが分からない。少なくとも室町期以降は武蔵国鎮守ですが、東京奠都の際、明治帝が当社を勅祭社と定め、四方拝などの宮中祭祀の対象に加えられたりして重んじられたそうです。
明治15年(1882年)社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになりまして、昭和15年(1940年)には、国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になったそうです。

楼門が眼に鮮やかですが、ここに辿り着くまでが人、ひと、ヒトの大混雑。駅前商店街を突き抜け、大鳥居(第二鳥居)から参道に滑り込みましたが、露天の出店で参道が狭まっておりますから、どこまでも行列。露天の活気は大好きなんですが、画像のこの位置まで辿り着くまでがホンに一苦労でした。なんせ歳旦祭初日ですもんね。(笑)

hikawasya090101c.jpg

今年の干支であります、丑の絵が大きく飾られています。

参拝後、家内安全御札と学業御守を購入。そういえば大鳥居の目の前には大宮アルティージャのSHOP「オレンジスクエア」があるんですが、生憎お休みでございました。セガレはレッズ贔屓なんですがね。(笑)
代わりといっちゃなんだが、駅前繁華の商店でマンUの長袖シャツ(ルーニー/ゼッケン10)を強請られた。(笑)

osechi2009.jpg

帰宅した後、おせち料理を戴きました。絢爛豪華ですね〜。豪華すぎるとも批判の声はあるかしれないが、これ少年教育の一環と考える。マックのクォーター・パウンダー・チーズが食えても、黒豆や数の子食えないのは日本人の心情的には嫌なんだな。ただでさえ好き嫌いが激しすぎるので、必ず一箸はつけさせる事と常としている。将来なんらかの出先で困るでしょう?

子供心は他所にワタクシは眼もお腹も満腹でございます。早く来い来い〜♪お正月ぅ〜♪ってすでに来年の話。この正月休みは、「メタボが正義」であると、声を大にして言いたい!(笑)
posted by まっぴら at 18:00| Comment(6) | TrackBack(0) | まっぴら歴史散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月18日

さきたま点景(3)

syougunyama1.jpg

土木工学ではよく「安息角」といいますが、これは自発的に崩れる事なく安定を保つ斜面の角度。これが長年の侵蝕や干拓により崩れてしまっていたのが、「将軍山古墳」。昔訪れた時には、盛り土が失われ、原形を留めていなかった。これが近年(1991年〜1996年)墳丘と周堀が復元されまして、造営された当時の姿を取り戻した。この古墳が観たかったのでした。墳丘長90メートル。巨大古墳の中では一番後期の六世紀第W四半期。

syougunyama2.jpg

素焼きの土器(埴輪)が並びます。祭祀用とも云われてますが、土砂の流出を防ぐ為、雨受けの役割をしたとも言われています。同じく「葺石(ふきいし)」なんて、礫で墳丘表面を覆う手段もありましたが...。

syougunyama3.jpg

東側は「将軍山古墳展示館」になっており、玄室内部が再現されています。天井石は秩父産の緑泥片岩ですが、側壁・奥壁には房州石(砂岩)が使用されています。ここの房州石は千葉県富津市でしか産出しないので、古利根川や古荒川を使って運ばれてきた=河川を使って一定の行来があった事を伺わせます。

やはり前方部、後円部ともに埋葬施設が出土したそうです。血縁の方が追葬されたんでしょうか?倭製乳文鏡、挂甲、八角稜鈴、舌付銅鈴、環頭太刀、銀装太刀、鉄矛、鉄斧、石製盤、耳環、金環、大刀、馬冑、蛇行状鉄器が出土。このうち馬冑は和歌山県の大谷古墳しか出土例がなく、多く発見されているのは朝鮮半島南部(伽耶地方)。ですからこの馬冑も朝鮮製なんでしょうか?
しかも蛇行状鉄器は馬上に旗を立てる曲線形の竿なので、有力者の古墳なのはほぼ間違いないのではないでしょうか?

syougunyama4.jpg


posted by まっぴら at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | まっぴら歴史散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月12日

さきたま点景(2)

inariyama1.jpg

「さきたま点景」、続いては稲荷山古墳。全長120m、高さ11.7m。さきたま古墳群の中ではもっとも古い時期に造営された前方後円墳だとか。

inariyama2.jpg

15年前に足を運んだ折には実は円墳形状。これは昭和初期の干拓事業の際、前方部が取り壊されてしまった事による。(公園化される前は、ここの周囲は田んぼだったんですね。)2003年の復元工事で、この通り見違えるようになりました。前方部はマツリゴトを行う祭壇の役割もしたんだとか?

inariyama3.jpg

前方部墳頂部から後円部を望みます。昔は後円墳頂部(画像の植え込みの中心辺り)には小さな稲荷のお社があり、それで「稲荷山」。
この後円部から、画文帯神獣鏡や勾玉、さらには例の金錯銘鉄剣が出土したんですね。この鉄剣には、115文字に及ぶ金象嵌であしらった銘文が彫られている事が、後の調査で判明。国宝に指定されました。また出土した埋葬施設の礫槨と粘土槨は、鶏小屋のような金網に囲まれて、お社ともども大切に保管されていました。

この銘文の中に「獲加多支鹵(わかたける)大王」という名前が登場します。471年に彫られたものですから5世紀後半、この当時活躍した帝は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」、また「宗書」における「倭國王武」と記された事からして、第二十一代「雄略天皇」の事ではないかと伝えられています。

また同様の「獲加多支鹵大王」の銘文を刻んだ金錯銘鉄剣は、熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳からも出土しているそうで。この当時、一定の生産ロッドみたいのがあったんでしょうかね?(笑)

inariyama4.jpg

これが後円部墳頂から出土した主体部(埋葬施設)「礫槨(れきかく)」。河原のごろた石を敷き詰めています。出土した鉄剣の銘文には「杖刀人首(首=長)」とあり、被葬者は代々その役職を勤めあげてきた人物らしいのですが、金錯銘鉄剣を含め、画文帯神獣鏡や勾玉など副葬品が多いので、地方の有力な豪族クラス、国造(くにのみやつこ ※注)ほどの身分ではなかろうか?

inariyama5.jpg

主体部からは更にもう一箇所。追葬なんでしょうか?(同じ棺に何度も埋葬するのは重葬)隣の礫槨に対して「の字型」に配置。方向などに規則性が無いので謎なんです。隣り合わせるように「粘土槨(ねんどかく)」。土で床を作り上に木棺を乗せ、上を土で覆った...ちょっと前の土葬と同じですか。どちらもゾウリムシのような「舟形」です。

これ等は円中央部からは微妙にずれた位置にあり、後年この場所に協同葬として葬られ、更に地中に造営当時の主体部があるのではないか?という説もあるそうですけど...。歴史のロマンを感じますですねぇ〜。
つづく


inariyama6.jpg

(※注) ときの朝廷によりつくられた地方行政組織。初期は各土地の有力な豪族が任官。大化の改新により廃止。

 
posted by まっぴら at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | まっぴら歴史散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月11日

さきたま点景(1)

歴史散歩」なるカテゴリを増やしてみました。趣味は趣味なんですが、果たしてコンテンツとして成立するかどうか?

ちょっと前の話になりますが、県北部の「さきたま風土記の丘」というところに行ってきました。行田市埼玉(さきたま)の古墳公園です。ここには5世紀後半から6世紀末にかけて造られた巨大古墳群があり、「辛亥年七月中記乎獲居臣...」で始まる金錯銘鉄剣が出土した事で有名で、世界登録遺産にしようと活動が近年活発なんだとか。前方後円墳8基、円墳1基。

maruhakayama1.jpg

今日はこの中の「丸墓山古墳」をレヴューしてみます。直径102m、高さ18.9mの日本最大の円墳。古文書(新編武蔵風土記稿)には麿墓山(まろはかやま)とも記載されています。造営されたのは他の前方後円墳の系列とは別個に6世紀前半という説が有力だそうです。

maruhakayama2.jpg

被葬者は毛野の勢力なのか?武蔵か?あるいは、ときの大和朝廷が毛野の勢力に台頭する為に送り込んだ派遣軍の盟主のものなのか?これが不明です。利根川を挟んで群馬県との県境に近い立地条件。河川は古くは物を運ぶ大動脈でしたが、同時に国境線という側面もあります。この地で利根川水系を挟んで仮想敵とにらみ合ったんでしょうか?

maruhakayama3.jpg

東側からタカチが登ります。いやぁ〜っ!かなり急勾配。かなり息が切れます。雨が降ったり止んだりの悪条件で、足元の階段が滑りますから要注意!墳丘頂上は見晴らしが良いので、平野が一望出来るます。

maruhakayama4.jpg

西側に下ります。傾斜がかなり急ですから、こちらもおっかなびっくりです。この頃の埋葬施設は礫槨(れきかく)や粘土槨(ねんどかく)は主なんですが、丸墓山古墳は不明。後に別の古墳を取り上げた時に語りますが、この埋葬施設に使われるっていうのが、古墳を調べる上でのひとつのキーワードになってきます。

maruhakayama5.jpg

後の秀吉の時代、関東北条征伐の際、石田三成は行田忍の忍城の攻略を担当したそうです。三成はこの円墳の墳丘頂上に本陣を敷きました。秀吉の戦術(高松城の水攻め)を模倣して水攻めをしたそうですが、経理担当者が土木作業に従事するには無茶があったようで、残念ながら堤防が決壊し、脆くも失敗に終わったんだとか?この近隣には確かまだその時の石田堤の跡がまだ残っておったはずです。(?)

県北〜行田から羽生にかけて古代古墳の宝庫なんですが、その多くは後の時代、水田や干拓事業などでだいぶ取りこぼされて、消滅してしまったものも数多いそうですね。
      
つづく
posted by まっぴら at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | まっぴら歴史散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする